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風納洞 · 🏰

漢江の砂地に王城を築いた人々

第1話 · 土を層状に突き固めて百済の巨大都城を作った技術と川の条件

集合住宅と道路の間に残る緩い高まりは自然堤防ではなく、約二千年前の人々が漢江沿いの土を選んで築いた王城の壁である。

山城ではなく川辺の平地城

ソウル風納洞土城は三国時代の百済が漢江南側の平地に築いた大規模な土城である。国家遺産ポータルは史跡として掲載し、漢城百済博物館は風納土城と夢村土城を百済漢城期の王城として説明する。「城」から山頂の石壁を想像しやすいが、ここでは漢江の自然堤防と低地を利用した。本来の周囲は約三・五~三・七キロと推定され、川に接した西壁の一部が失われて現在は約二キロが残る。住宅、道路、公園の間で線が途切れるのは、最初から小さかったからではなく、河川浸食、洪水、都市化が形を変えたためだ。普通の坂に見える地形を都城の境界として読み直す必要がある。

土を一度に積み上げたのではない

発掘は単純な土山でなく、性質の異なる土を選び、砂と粘土を層ごとに配置して突き固めた土木構造を示す。区間によって盛土方法も変え、幅と高さを確保した。松坡区の資料は残存壁の最大高を十三メートル以上と紹介する。正確な築造年代と段階は研究中だが、大量の労働力、土木知識、食料・道具・工程を組織する権力が必要だったことは明らかだ。壁上へ登るのでなく指定路から斜面と断面説明を見て、一籠ずつ運ばれた土が都市の境界と統治の表示へ変わる過程を想像する。

漢江は防御線であり交通路だった

川沿いは洪水と浸食の危険を抱える一方、人と物資を運び広い流域を結ぶ。百済最初の都・漢城は紀元前十八年の建国伝承から四七五年の熊津遷都まで、百済史の大部分の舞台だった。王城と見る根拠は巨大壁だけでなく、内部の道路、大型建物、貯蔵穴、井戸、祭祀施設にもある。ただし文献の「河南慰礼城」と風納土城を無条件に完全同一視するより、発掘成果によって最有力の王城遺跡の一つと評価され、年代、区画、夢村土城との関係は研究が続くと説明する方が正確だ。

途切れた壁を一本の線として読む

松坡区の公式探訪路は土城道、伝統市場道、百済歴史道を約三・八キロで結ぶ。連続する山城を一周するのでなく、住宅、市場、整備区間を行き来して失われた線を頭でつなぐ。公式地図で実物、復元、推定区間を区別し、集合住宅の塀や工事の盛土を古代壁と決めつけない。漢江道や城内川道へ接続できるが、直線距離ではなく横断歩道、入口、柵、工事迂回が実際の歩行を決める。案内距離は信号待ちと観覧時間を含まない。

遺産と生活の間を歩く

壁は国家遺産であると同時に住宅と商店に近い。私有地と発掘規制区へ入らず、斜面を登らず、土を採取しない。雨後は草と土が滑るため舗装路を選ぶ。復元工事と展示施設の公開は変わり得るので松坡区の最新告知を確認する。規模は一つの展望点から見えない。川、残る土壁、途切れた街区を順に見て見えない周囲を復元し、現在の住民を妨げないことが平地王城の旅である。実在部分と研究上の推定を分ければ、美しい復元図をそのまま保存状態だと誤解せずに済む。