1920年代、現在の新安郡にあたる荷衣島・上苔島(サンテド)・下苔島(ハテド)、いわゆる「荷衣三島」の農地に対し、日本人地主の徳田弥七は小作料の引き上げと、滞納した小作料の強制差し押さえを実施した。生活の見通しが立たなくなった荷衣島の青年の一部は、日本の大阪へ渡って生計を立てざるを得なくなり、1927年1月、大阪に居住していた荷衣島出身の高長明(コ・ジャンミョン)と崔龍道(チェ・ヨンド)を中心に、荷衣労働青年会が結成された。1928年2月から4月にかけては、荷衣面で小作争議が本格的に展開された。
荷衣三島の住民たちの闘いは、これで終わらなかった。彼らは島税の納付拒否、さまざまな訴訟、農民組合運動などを通じて抵抗を続け、この闘いは植民地時代を経て光復後も、さらには米軍政期に至るまで続いた。最終的に国会による有償返還の決定を勝ち取ったことで、住民たちは1956年になってようやく自分たちの農地を取り戻すことができた。小作料の引き上げに端を発した抵抗が、世代を超えて30年近くにわたって続いたという事実は、この島の住民たちにとって土地が単なる財産ではなく、守り抜くべき尊厳であったことを物語っている。
「360年の闘争」は異なる時代の土地紛争を結ぶ記念の枠組みで、一組織が360年間続いた証拠ではない。小作争議、農民組織、訴訟、土地回復は別の層である。1956年の返還は有償で、無償供与ではなかった。文書は作成者と年代を確認する。荷衣島へは今も船の計画が必要で、座標は三島の抽象的中心ではなく見学可能な記念館に置く。