会賢洞から南山へ上ると市場の音が急に遠のき、坂の住宅路地が現れる。この一帯は貞洞、筆洞、墨井洞などとともに広い意味で「南村」と呼ばれた。清渓川北の北村と対になる名だが、明確な行政境界を持つ一地区ではない。
「南酒北餠」という言葉が示す都市
朝鮮後期には、南村に官職のない士人が多く、北村に権力者が集まるという表現が伝わった。ただし南村全体の固定した住民構成と考えてはならない。官僚と士人のほか、商人、職人、下級官吏、労働者も混住した。
植民都市は南村の意味を変えた
日本統治期、日本人居住地と商業施設が南山北側、忠武路、明洞へ広がった。朝鮮人が記憶した南村の上に植民都市の南村が重ねられた。解放後は帰還者、避難民、都市労働者が流入し、家と路地はさらに細分化された。
古びた景色より生活の連続を見る
会賢洞では新築、古い住宅、縫製や印刷の小規模作業場が隣り合う。壁や階段を撮影背景として消費せず、表札、植木鉢、配達動線にも目を向ける。観光地図で空白に見える路地も誰かの日々の帰路だ。