苑西洞は昌徳宮北西宮城と北村の間にある細長い村である。宮殿へ物品と労働を提供した人が周辺に住んだと伝わるが、現在の各世帯を宮人の子孫と断定できない。大区画は分割され、都市型韓屋、一般住宅、集合住宅が入り、村の構成は変化し続けた。
宮殿の後背村という言葉は、多様な住民を一つにする
王室関連労働者に加え、商人、学生、会社員、芸術家が時代ごとに住んだ。宮殿との地理関係は重要だが、全体を王室サービス村だけで説明すると近現代住宅史を消す。建物年代と住民記憶を具体的に確認する必要がある。
韓屋改装には保存と商業化の二面がある
工房、カフェ、宿泊への転換は解体を避け修繕費を生む一方、商業需要は家賃と騒音を上げ、居住機能を減らす。ガラス屋根や大窓を全て毀損と呼ばず、商業的に残ったから成功とも断定しない。
宮城は撮影背景であり、住民の通学・帰宅路でもある
狭い道で団体説明を続けたり、向かいの門を塞いだりしない。住宅窓と庭を撮影せず、ゴミを住民設備へ捨てない。カフェ閉店後も路地は24時間観光地ではなく、誰かの家の前である。