哲宗の従兄弟であった李世輔は、当時権勢を誇っていた安東金氏(アンドンキムシ)の外戚勢力を批判したことを理由に、1860年(哲宗の治世11年目)、莞島郡の薪智島で圍籬安置(いりあんち、いばらの垣根で住居を囲んで幽閉する流刑の一種)に処された。彼は1863年(高宗即位の年)、趙大妃(チョデビ)と摂政・興宣大院君(フンソンデウォングン)の計らいによって釈放されるまで、この地で流刑生活を送った。この間に彼が詠んだ流刑の詩は、『薪島日録(シンドイルロク)』という文献に伝えられている。
鳴沙十里には、砂が鳴るような音と流刑者の望郷を結びつけた口承も伝わる。ただし、その人物が李世輔であったことや、流刑者が浜辺で詩を書いた末に亡くなったことを裏づける文献は確認されていない。また「鳴」は音が出る、鳴り響くという意味であり、人の泣き声だけを指すものではない。記録で確認できる李世輔の流刑と浜辺の口承は、並べて紹介しても一つの史実にまとめるべきではない。
公式観光案内が伝えるのは砂の音が十里先まで聞こえたという地名由来であり、特定の王族流刑者の死を証明しない。李世輔の1860〜1863年の流刑と『薪島日録』は文献史実、浜辺の物語は口承である。根拠なしに個別の詩をこの浜で作ったとはしない。座標は薪智面中心ではなく海水浴場に修正した。島は橋で車両アクセスできるが、開場区域、安全線、駐車運用は季節で変わる。「泣く砂」を科学的事実とは扱わず、記録と口承を並べて読む。
鳴沙十里は現在、海水浴場として運営される生活観光地でもある。盛夏には伝承より安全放送や施設が先に見えることがある。現在の姿が伝説と違っても口承が消えたわけではなく、口承が残るからといって浜辺が昔のままでもない。文献で確認できる流刑と、海の音を郷愁に読み替えた地域の物語の間を埋めすぎないことが重要である。