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清渓川・広蔵市場 · 💧

清渓川はもともと澄んだ散歩用の川ではなかった——朝鮮王朝の「開川」管理

現在の清渓川を見ると、自然の谷川が都心にそのまま保存されてきたように感じやすい。しかし朝鮮王朝時代には一般に「開川」と呼ばれ、周囲の山や谷から流れ込む水を集め、東の城外へ送り出す都市基盤施設だった。雨の少ない時期は水が浅く、大雨が降ると水位が急に上がる、季節変動の大きな河川だった。

生活排水とごみも川へ集まった

上下水道が分離されていない都市では、開川は雨水だけでなく、家や市場から出る汚水とごみも受け入れた。橋の下や川辺は洗濯、荷物の運搬、商い、休息の場所だった一方、悪臭・汚染・浸水の危険も大きかった。「清らかな昔の水路」という郷愁だけでは、川の近くに暮らした人々の環境を説明できない。

「浚川」は川底を掘る大規模な都市事業だった

堆積した土砂や廃棄物が水路を塞ぐと、洪水被害は拡大した。朝鮮政府は人員と費用を動員し、川底を掘り、堤防を整備する浚川を実施した。英祖期の大規模な浚川は、国家が都城住民と労働力を組織した代表的事業である。掘り出した土をどこへ積み、誰が労働を負担するかも重要な行政課題だった。

水路は階層と生活圏の境界でもあった

清渓川周辺では、上垈・中村・下垈など、地形・職業・階層の異なる生活圏を区分する際に川が基準となった。北村と南村を分ける線であると同時に、橋と市場を通して人々を結んだ。川を都市の中央を切る空白ではなく、住民の移動・労働・衛生を組織した社会的境界として捉える。