今の潭陽の地は、もともと百済の秋子兮郡と呼ばれていた。新羅が三国を統一した後、景徳王は全国の地名を漢字式に整備し、この地を秋成郡と改めた。こうして二つの王朝を経て二度名を変えたこの地に、「潭陽(潭陽)」という今の名前が初めて登場したのは、高麗の時代になってからのことである。995年(高麗・成宗14年)、朝廷はこの地に潭州都団練使という行政・軍事機構を設置した。
それから23年後の1018年(顕宗9年)、朝廷はこの地域を潭陽郡に改編し、羅州に編入した。百済の秋子兮郡、新羅の秋成郡を経て、ついに高麗の潭陽郡に至るまで、この地は三つの王朝を渡り歩きながら三つの名前を持っていたことになる。 それから千年近い歳月が流れる間、行政区域の境界や所属は幾度も変わったが、「潭陽」という名前そのものは生き残り、今日まで受け継がれている。