1962年7月から1964年7月にかけて、当時小鹿島病院の院長だったチョ・チャンウォン(趙昌源)は、ハンセン病患者たちに一つの条件を提示した。干拓事業に取り組めば、小鹿島を離れて陸地に新しい定住村を作ってやる、というものだった。長年隔離された生活を送ってきたハンセン病患者たちにとって、これは陸地で暮らせるという希望そのものであり、多くの人々がこの提案を受け入れ、小鹿島の北にある豊陽半島から道陽邑の鳳岩半島まで、2キロメートルを超える海を埋め立てる労働に従事した。3年にわたるこの労働の結果、汝矣島の面積の3倍に及ぶ干拓地が生み出された。
しかし、締め切り工事が80〜90パーセントほど完了した頃、政府は突然、すべてのハンセン病患者をこの土地から追い出した。総選挙を控え、「ハンセン病患者とは一緒に暮らせない」と反対していた干拓地周辺住民の陳情に、政界が屈した結果だった。3年間、自らの体で築き上げた土地から、完成を目前にして追い出されたハンセン病患者たちにとって、この事業は結果的に政府による欺瞞にほかならなかった。 現在この干拓地では、ハンセン病患者ではない人々が農業を営んでおり、高興郡道徳面五馬里には、彼らを追悼する五馬干拓ハンセン病患者追慕公園が建てられ、彼らがあれほど手に入れたかった五馬島干拓地と小鹿島を、共に見下ろす場所に立っている。