現在の光化門広場を、朝鮮時代から続く広場だと考えると都市の変化を見落とす。近代道路の開設と路面電車、日本統治期の景福宮破壊、解放後の自動車交通と官庁建設が中心軸を変えた。広い中央道路は、国家行事、群衆動員、通勤交通を同時に担った。
銅像はそれぞれの時代が選んだ記憶である
李舜臣像は1968年に建立され、世宗大王像は2009年の広場造成とともに設置された。二人は朝鮮王朝の軍事的防衛と、文化・民本のイメージを代表するが、像そのものは現代国家が中心街に配置した記念物である。朝鮮時代の六曹通りにも同じような像があったと考えてはいけない。
2009年の広場は中央分離帯型から始まった
最初の光化門広場は広い車道の中央に細長く置かれ、アクセスの悪さ、暑熱環境、交通中心の構造が批判された。その後、市民意見と設計論争を経て、西側の歩行空間を広げた新広場が2022年に開場した。現在の姿も最終的で不変の完成形ではなく、都市が調整を続ける一段階である。
集会と祭典が広場の公共性を試す
光化門一帯は、国家儀礼、応援、追悼、大規模集会が行われる政治的空間である。同時に、噴水や庭園、展示を楽しむ休息の場でもある。特定時期の集会だけで広場を定義せず、異なる市民が空間を使う権利と、安全・通行をどう調整するかを合わせて考えたい。