「明洞」という名から明るく華やかな商業街を連想するが、現在のアイデンティティが当初から地名に含まれていたわけではない。朝鮮王朝の漢城府には明礼坊という行政区域があり、今日の明洞はその広い歴史的範囲の一部とつながる。南山北側の谷と丘の間には、官庁関連施設と、両班・中人・庶民など異なる階層の住居が混在した。
開港後、清渓川南側に日本人居住地が広がった
1880年代以降、日本公使館、商人、金融・流通施設は南山北麓の泥峴から忠武路・明洞方面へ拡大した。鍾路が朝鮮人商圏の中心だったのに対し、本町通りは植民地都市・京城の日本人商業と消費を代表する街へ成長した。道路整備、路面電車、銀行、百貨店、劇場がその中心性を強めた。
本町は繁華街の華やかさと植民地権力をともに表した
本町は日本の都市で中心商業街によく使われた名称である。京城の本町も新商品と流行が最初に入る繁華街だったが、その成長は植民地権力と日本人に有利な都市投資の上に成り立った。華やかなショーウインドーだけを懐古的に再現すれば、その空間を利用できた人と排除された人の差を見落とす。
解放後、明洞は名前と利用者を組み直した
1946年、ソウル市は日本式の町名を整理し、明洞という行政地名を用いた。建物と商業基盤は残ったが、店の所有者や客、文化的象徴は変わった。植民地商業街が名前だけ変えてそのまま続いたとも、解放と同時に全く新しい街が誕生したとも言えない。明洞の歴史は断絶と連続が同時に生じた過程である。