内資洞とそのすぐ南の内需洞は名称がよく似ており、一つの官庁から分かれた地名に見えるが、由来は異なる。内資洞には宮中の食品、織物、宴享を担当した内資寺、内需洞には王室私有財産を管理した内需司の記憶が残る。二つを一緒に見ると、宮中支出が一つの区別のない金庫から出たのではなく、国家行政と王室私財が分かれ、時には衝突したことがわかる。
内資洞の内資寺は、戸曹所属の宮中供給官庁だった
内資寺は米、小麦粉、酒、醤、油、蜂蜜、野菜、果物を宮中へ供給し、織造と宴享関連の仕事を担った。財政を担当する戸曹の属衙門で、官員、帳簿、調達手順、倉庫を備えた。宮中の食事、衣服、宴会は、宮外の生産、貢物、市場調達、検査、運搬の結果だった。
内需洞の内需司は、王室の私有資産を管理した
内需司は王室が直接保有する土地、奴婢、穀物、布、雑物、収入を管理した。一般の公共財政とは異なる王室私蔵として機能したため、その拡大と運営は官僚から繰り返し批判された。1801年に内需司奴婢の名簿が廃止されても、官庁自体が同時に消えたわけではなく、その後も制度変化の中で存続した。
隣り合う二つの街を歩くと、公的供給と私的財政の境界が見える
現在の内資洞には学校、店舗、業務施設が混在し、内需洞には大規模な業務・住宅建築が多く、官庁の全体配置はほとんど見えない。内資寺跡から内需司跡の標石まで歩き、景福宮、官庁街、倉庫、市場との距離を見る。標石は歴史地点を知らせるもので、官庁の正確な外郭全体を示すとは限らない。